病室の丸椅子に腰を下ろしながら、ベッドで右足を固定されている友人に声をかけた。昨夜、交差点で派手に転倒して靭帯を断裂したらしい。 「いや、ただの不注意じゃないんだって」 友人は青白い顔で、上半身だけをこちらへ乗り出してきた。
「お前もさ、信号待ちでスマホ見てるとき、視界の端で隣の奴が動いたら、青になったと錯覚してつられて一歩出しちゃうこと、ない?」 ある。無意識の同調行動だ。 「昨日の夜、帰り道の交差点でそれがあったんだよ。画面ばっか見てたら、右隣に立ってた黒い服の女がスッと前へ出たから、俺もつられて一歩踏み出した。そしたら目の前を大型トラックが猛スピードで抜けていって……慌てて後ろに体重を戻して倒れ込んだ拍子に、足首をやって這いつくばったんだ」
友人の声が一段、湿った低さに落ちた。 「で、赤信号で飛び出した隣の奴に文句つけようと顔を上げたら、俺の右隣には、最初から誰もいなかったんだよ。……なあ、あれ、わざと誘導してんじゃねえの。列に混ざって先に足だけ出して、信号より先にこっちを車道へ引きずり出そうとする奴が、いるんじゃねえかって」
俺はわざとらしく鼻で笑って立ち上がった。 「怪談としてはよく出来てるけどさ。どう考えても歩きスマホしてたお前が悪いだろ」 冗談めかして吐き捨て、恨めしそうな顔をする友人を残して病室を出た。
病院を出ると、すっかり日が暮れていた。 夜風に吹かれながら駅へ向かう。大通りの交差点で赤信号になり、俺は列の2列目で足を止めた。目の前の最前列には、くたびれたスーツのサラリーマンが立ち、うつむいてスマホをいじっている。 俺も無意識にポケットからスマホを取り出し、タイムラインを開いた。
指が画面を流しているあいだ。 ふと、最前列に立つサラリーマンの『右隣の空間』から、黒い影がスッと前へ滑り出したのが見えた。
あ、青になったか。 そう錯覚したサラリーマンが、スマホから目を離さないまま、つられたように右足を大きく踏み出した。信号は、まだ赤だった。
激しいクラクションと、鈍く重い衝突音。突風が顔を打ち、俺の目の前からサラリーマンの姿が一瞬で消え失せた。 悲鳴が上がる交差点で、俺は呆然と、最前列の「右端」を見つめていた。 そこには、最初から誰も立っていなかった。